げんてんかいき

趣味は「聖書通読」ですが、何か?

「血」は「命」

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聖書通読箇所

創世記9~10

9)大洪水の後、神はノアを祝福し、契約の「虹」を立てる。ノアの3人の息子のひとりハムは父が泥酔して裸でいることを兄弟に告げたこと(バカにした?)で呪われる。

10)ノアの子ども、セム、ハム、ヤペテの系譜 

注目節

肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない 

~創世記9章4節~

考察

旧約聖書においては、肉は血抜きして食べるようにとの規定がある。

そこには衛生的な理由もあったかと思われる。

しかし、聖書において明示されているのは象徴的な理由である。

「血」は「いのち」を象徴するものであるから食べてはならないと神は命じられた。

では、なぜ「血」が「いのち」を象徴すると食べてはならないのか?

それは「いのち」が神聖なものとみなされるからだろう。

しかし、イエスは次のように語られている。

まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません(ヨハネ6:53)

上記の言葉はカニバリズム(食人)を提唱しているわけではない。

当たり前だろうと思われるかもしれないが、当時これを聞いて勘違いした人もいた。

しかし、これもまた象徴的表現。

「人の子」とはイエス自身のことを指している。

個人的には「人の子の肉を食べ、その血を飲む」とは「イエスをキリスト(救い主)として受け入れ、その教えに従って生きる」ことと捉えている。

すなわちそれによって、キリストの言葉が血となり肉となるという意味で。

興味深い点は旧約では、肉を血のあるままで食べてはならないとされていたのに、イエスは「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ」と象徴的な表現ではあるものの「血のあるままで肉を食べよ」と言われたことである。

この主張は旧約の教えを真っ向から否定している。

イエスはあえてそのような表現をもって弟子たちに迫られたのであろう。

命のない(実践のない)肉(教え)は虚しい。

当時の律法学者、パリサイ人に対する皮肉もあったのか?

信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。(ヤコブ2章17節)

所感

「忍耐を持って善を行い、栄光と誉れと朽ちないものを求める者には、永遠のいのちを与え」(ローマ2:7)とある。

キリスト教において信仰は「恵み」によるものであり「行い」によるものではない。しかし、「行い」の伴わない「信仰」もありえない。

そのことを心に刻み「行い」へと発展する本物の「信仰」を持っているかどうか自己吟味したい。