げんてんかいき

趣味は「聖書通読」ですが、何か?

神のことばが実現する上での誤差

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聖書通読箇所

創世記13~14

13)アブラハム(アブラム)、ロトと別れる

14)アブラハム、捕虜となったロトを助ける

注目聖句

さあ、目を上げて、あなたがいる場所から北、南、東、西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地をすべて、あなたに、そしてあなたの子孫に永久にあたえる(創世記13章14~15節)

考察

神はアブラハムに「見渡している地(カナンの全土@創17:8)をすべて、あなたに、そしてあなたの子孫に永久に与える」(創世記13:15)と約束された。

しかし、実際にアブラハムが所有した地はサラの墓地として購入したマクペラの洞窟のみ(創世記23:9)。

神はアブラハムへの約束を違えたのだろうか?

霊的世界の現実が肉的(物質)世界に実現する上での誤差

霊的な世界で実現したことが、肉的(物質)世界に反映される際には誤差が生じるとしたらどうだろう?

語弊のある言い方かもしれないが、神の発せられたことば(約束)が、そのまま地上に成るわけではないということだ。

たとえば、神が預言者エリヤによって成し遂げると語られた3つのことがある(Ⅰ列19:15-16)。

  1. エリシャを預言者として任命する
  2. ハザエルをアラムの王として任命する
  3. エフーをイスラエルの王として任命する

しかし、実際にエリヤによってなされたのは「1」のエリシャを預言者として任命することだけ。

他の二つはその弟子であるエリシャによって成された(Ⅱ列8:13、9:1-10)

これを神が約束を違われたと考えるのか、それとも、霊的世界の現実が肉的世界に実現する際には誤差が出るものであると考えるか。

神が約束された時点で霊的な世界においてはカナンの全土はアブラハムにすでに与えられていたが、それが肉的世界に実現する上では(人間には誤差と感じられる)歴史的な過程があるとは考えられないだろうか?

また、誤差が生じるのが当然のことであるならば、創世記1章と2章における創造物語の相違もそれで説明できる。

一般的には、その相違は「二つの創造物語があった」とか「視点の違い」等で説明されるかと思う。

しかし、1章が霊的世界に実現したことで、2章がその霊的世界の現実が肉的(物質的)世界に実現したことと考えるとどうだろう。

そこに順序や内容に誤差があることに問題はないし、矛盾も生じないのではないだろうか?

全体を個として、個を全体として

また、大事なのは「あなたの子孫に」という部分である。

神は人間を個人としても扱われるが、全体としても扱われる。全体をあたかも個人のように扱われると言っても良い。

「アブラハム」と言われる時に「その子孫」も含まれている考えて良い。

アブラハムの子孫に与えることはすなわちアブラハムに与えることなのである。

エリヤによって成されると言われた神の約束が、彼の弟子エリシャによって完成したこともまた、それと似ている。

「エリヤによって」という中には彼の弟子である「エリシャ」も含まれていたのだ。

所感

神の約束の言葉を握っても、それが私たちの思うように実現しないことはままある。しかし、神の約束のことばは神の時に神の方法によって必ず実現する。そのことを堅く信じつつ、今日という日を歩もう。