げんてんかいき

趣味は「聖書通読」ですが、何か?

信仰のゆらぎはあれども

f:id:tkoki777:20190916142403p:plain

聖書通読箇所

創世記17章

アブラムからアブラハムへ改名。神はしるしとしての割礼を受けるように命じる。サライからサラへ改名。生まれてくる約束の子をイサクと命名せよと。

創世記18章

3人の神の使いの訪問。神の使いは来年サラが懐妊すると預言。またソドムとゴモラの町を滅ぼす予定であることをアブラハムに告げた。

注目聖句

アブラハムはひれ伏して、笑った。そして心の中で言った。「百歳の者に子が生まれるだろうか。サラにしても、九十歳の女が子を産めるだろうか」(創世記17章17節)

考察

昨日の聖書通読ではアブラハムの「義と認められた信仰」についても触れた。

www.gentenkaiki.com

その時、アブラハムは80代半ばぐらいで、子どもはなかった。

そんなアブラハムに神は子どもを与えるとの約束をされた。

「アブラハムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた」(創世記15章6節)

しかし、本日の通読箇所である創世記の17章で神が再びアブラハムに現れた時、その約束はまだ実現していなかった。

すでにアブラハムは100歳。

それにも関わらず、神は再びアブラハムに妻サラ(90歳)をとおして男子を与えると言われたのである

 人間的にみたら「与える、与える」詐欺である。

十数年前、子孫を与えるとの約束を「アブラハムは信じた」。

しかし、さすがのアブラハムも今回ばかりは「百歳の者に子が生まれる?」と失笑した(創世記17:17)。

80代半ばの時でも子どもが授かるのはほぼ奇跡だったのにそんな・・・

という心持ちだったのだろう。

「信仰の父」と称されるアブラハムではあるが、彼の信仰も決して完全ではなかったのだ。

その事実は、ある意味私たちを安心させる。

あの偉大な信仰者でも、いつでもかつでも神様を信じきれたわけではなかった。

小心の信仰者である私においてはなおさらのこと。

大事なのは、それでもなお創造主なる神から離れないことなのだろう。

神を礼拝し続けることなのだろう。

神はそのアブラハムの信仰の姿勢を喜ばれていたのではないだろうか?

所感

クリスチャンになってから数十年の月日が経つ。

揺らぎに揺らいで来た信仰ではあるが、なお、その信仰を守り続けていることができているのはただただ神の恵みというほかない。

おそらく、これからも何かにつけて神に疑念を抱いて、聖霊を悲しませることも多々あるだろう。

しかし、そんな中においても、神を礼拝することだけは忘れないようにしたい。

私は礼拝者として創造されたのだから。