げんてんかいき

趣味は「聖書通読」ですが、何か?

信仰を試される神

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聖書通読箇所

創世記22章

神はアブラハムに息子イサクを燔祭として献げよ(殺せ)と命じる。しかし、それは信仰のテストであり、実際にアブラハムが息子イサクを屠ろうとした時、神はそれを止めさせ、彼にさらなる祝福を確約される。

創世記23章

アブラハムの妻サラの死(127歳)。アブラハムはサラの墓地として、ヒッタイト人エフロンからマクペラの洞窟を銀400シェケルで購入する。

注目箇所

これらの出来事の後、神がアブラハムを試練に合わされた(創世記22章1節)

考察

「これらの出来事の後」とあるが、前章の出来事の中でこの章に関連するのは、100歳のアブラハムと90歳のサラの間に待望の息子イサクが与えられたということだろう。

イサクは神の約束による奇跡の子であった。アブラハムの喜びはいかばかりであったか。それは私たちの想像をはるかに越えていたであろう。しかし、今度はそのイサクを燔祭として献げよと神はアブラハムに命じられるのである。

その時、イサクが何歳であったかははっきりとは分からない。イサクが薪を背負ってアブラハムに同行しているので、10代の半ばぐらいだったのか?

それはともかく、聖書の中では「イサクを献げなさい」との神の命令にアブラハムは即時に淡々と従っているように思える。しかし、その行間を読むならば、そこには激しい葛藤があったに違いない。それでも彼が神の言葉に従うことができた理由はどのようなものであったろう。それについては創世記には明記されていないが、ヘブル人への手紙の著者はその時のアブラハムの心境について次のように言っている。

彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。(ヘブル11章19節)

神はイサクをとおして多くの子孫を起こすと約束された。神がその約束を違えるはずがない。だから、もし私がイサクを殺しても、神は必ずイサクをよみがえらせてくださる。アブラハムはそのような信仰を持ったとヘブル人への手紙の著者は言っているのである。

これはなんとも呆れるぐらいにスゴい信仰である。他の人にそんなことを言ったら狂っていると思われるだろう。アブラハム自身もそのことは重々承知していたので、イサクを献げることを誰にも言わなかったのだろう。

それにしても、神はなぜこんなにも酷なことをされるのだろう。

アブラハムに子どもを与えると約束されてから、その実現まで25年待たせ、それが実現して10年ぐらいたったら、その子イサクを燔祭として献げよと命じる。

まるでアブラハムを弄(もてあそ)んでいるようにも見える。

しかし、22章の冒頭にもあるように神は私たちをあえて「試練」をとおらされる方である。「試練」とは「テスト」と換言してもよいだろう。

神は私たちの信仰をテストし、それに合格したら、次なる霊的なステップへと導かれるのである。

最後の下記の言葉を記す。

主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(哀歌3章33節)

あなたを苦しめ、あなたを試し、ついにはあなたを幸せにするため・・・である(申命記8章16節)

 

所感

この地上での生活は「訓練」の時。訓練であるからには、それが辛く苦しいのは当然のことと言えば、当然である。そのことを念頭におきつつ、今日という日に主が与えられる信仰の小さなテストに合格し、大きなテストに備えて行きたい。