げんてんかいき

趣味は「聖書通読」ですが、何か?

神の導きの中に生きる

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聖書通読箇所

創世記24章

アブラハムは信頼するしもべに、息子イサクにふさわしい花嫁を探すようにと、自分の出身地(ウル?)へ遣わす。神はそのしもべをアブラハムの親族のもとへと導き、しもべはリベカをイサクの花嫁として連れ帰る。

注目箇所

私の主人アブラハムの神、主よ。どうか今日、私のために取り計らい、私の主人アブラハムに恵みを施してください(創世記24章12節)

考察

アブラハムが息子イサクの花嫁探しのために遣わしたしもべは、もしかすると「ダマスコのエリエゼル」(創世記15章2節)だったのかもしれない。

アブラハムの厚い信頼を受けていてたそのしもべは、アブラハムに言われたとおりに、イサクの花嫁探しにアブラハムの出身地(ウル?)へ向かう。

そして、目指す土地についてしもべがまず最初にしたこと。それは「祈り」であった。

アブラハムが、このしもべを信頼していた理由の一つは、彼の敬虔な信仰によるところも大きかったのではないだろうか?

また、アブラハムのしもべにこのような敬虔な信仰が養われたのは、彼がアブラハムの信仰を間近で見聞きし、体験的に知っていたからかもしれない。

アブラハムのしもべが祈り終わるか終わらないうちに、しもべの目の前にリベカが現れる。

はたして彼女はしもべが祈りの中で神に提示していた条件通りの女性であった。

主の山に備えあり(創22:14)。

神は私たちが求める先から私たちに必要なものを知っておられる(マタ6:8)。

それならば、私たちは祈る必要がないのでは?と思わなくもない。

しかし、なお、神は私たちに祈ることを求めておられのである。

そのことから「祈り」はただ単に「願うこと」ではなく「神との永遠の交わり」に深く関わるのであろうことが推し量られる。

所感

「礼に始まり礼に終わる」と言うが、クリスチャンにとっては「礼拝に始まり礼拝に終わる」である。

それはまた「祈りによって始まり、祈りによって終わる」とも言える。

私たちはすぐに人に頼り、人に聞いてしまいたくなるが、そうではなく、まずなによりも神に頼り、神に聞くものでありたい。それでこそ、私たちは神の導きの中に生きることができるのであろう。