げんてんかいき

趣味は「聖書通読」ですが、何か?

事の善悪を論じるな

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聖書通読箇所

創世記31章

ヤコブ、妻子とともに全財産をもって伯父ラバンのもとから逃亡。3日後、それに気づいたラバンは彼らを追跡するも、途中、夢の中で神から「事の善悪を論じるな」と戒められ、ヤコブと和解する。和解した場所は「ミツパ」と呼ばれるように。

注目箇所

神は夜、夢でアラム人ラバンに現れて仰せられた。「あなたは気をつけて、ヤコブと事の善悪を論じないようにしなさい」(創世記31章24節)

考察

神がラバンに現れて「事の善悪を論じるな」と言われたのは、ラバンとヤコブを和解させ、ヤコブを守られるためだったと思われる。

「事の善悪を論じない」ことはある意味、私たちが他人と平和を保つ上で大切なことかもしれない。

もちろん、それは犯罪となるような「悪」を見逃したり、道徳的にもとることを是とすることではない。

人間関係の中で生じてくる様々ないざこざの中で、自分のほうが絶対正しいと思わないこと、少なくともそれをあからさまに主張しないことである。

夫婦の間でも、私のほうが正しい、あなたが間違っていると言っている間は争いが収束することはない。

自分の考え方、感じ方が物事を判断する上での規準となるのは致し方のないことである。

しかし、他の人が自分と同じような思考回路や感覚を持っているわけではない。

私たちは同じ世界に生きていて、同じ世界に生きていない。

似たような世界に生きる人とは意思疎通ができるのでそのことをあまり意識しないかもしれないが、まるで別世界に生きていて、同じ日本語を話して言るのに全く意思疎通の取れない人もいる。

そこにメジャー、マイナーの違いはあるかもしれないが、どちらの考え方、感じ方が正しいと言うことはない。

お互いに理解することは出来ないかもしれないけれども、お互いの考えを尊重することが大切である。

その上で、落とし所を見つけることだ。

また、人間関係の中で、正論を振りかざすことも愚かである。

私が正しくて、あなたが間違っていると攻め立てて来る人の言い分は、いくらその内容が正しくても、言うことを聞きたくなるのが人間としての性分である。

北風ではなく、太陽になろう。

所感

忍耐強く説けば、首領も納得する。柔らかな舌は骨を砕く。(箴言25章15節)

とあるが、私が正しい!あなたが間違っている!という思いで話せば、その語調や態度に相手を不快にさせる調子が加わってしまう。

しかし、そこに相手の考えを尊重する思いや、もしかしたら、私のほうが間違っているかもしれない、という謙遜な姿勢があれば、また違ってくるのではないだろうか。