げんてんかいき

趣味は「聖書通読」ですが、何か?

「使命」を果たすための「聖別」を求めて

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聖書通読箇所

出エジプト記3章

  • モーセがファラオから逃れるためにエジプトを出てから約40年の歳月が経った(出7:7)ころ、燃える柴の中に神が現れ、エジプトに行ってイスラエルの民を解放せよとモーセに命じる。

出エジプト記4章

  • 神の召しに躊躇するモーセを神は叱咤激励し、口下手なモーセに饒舌の兄アロンを助手として付けられる。
  • エジプトに向かう途上、主がモーセを殺そうとされるも、妻ツィポラの機転と介入により回避される。
  • モーセとアロンはエジプトに行き、イスラエルの長老たちに神の語られたことばを伝える。

注目聖句

さて、途中、一夜を明かす場所でのことだった。主はモーセに会い、彼を殺そうとされた(出エジプト記4章23節)

考察

エジプトで奴隷状態となっているイスラエルを解放しなさいと神は命じられた。モーセはしぶしぶではあるが、それに従ってエジプトに向かった。

しかし、その途中に神は唐突にモーセを殺そうとされる。

何度読んでも、何で?と思う箇所である。

神がモーセを殺そうとされた理由は明記されていない。ただ、その時にモーセの妻のツィポラが息子たちに割礼をして、その際に切り取られた性器の覆う皮を両足に付けることによって、それは回避されたという。

これまた、何で?と思ってしまう。

なぜ神はモーセを殺そうとされたのか?なぜツィポラがしたことで、モーセが殺されることがなかったのか?

正直、全然分からない。

ただ、この出来事を読むたびに、バラムの経験した似たような出来事を思い出す。

モアブの王バラクが、イスラエルの民を呪って欲しいとバラムに願う。神はバラムに最初は彼らと一緒に行くなと命じるが、二度目に彼らが願いに来た時には、バラムに一緒に行けと命じられた。

しかし、実際にバラムが行こうとすると、神の怒りが燃え上がり、主の使いが彼に敵対して道に立ちはだかった(民数記22:22)というのである。

この時、もしバラムが乗っていたロバがそのことに気づかないで、それを避けようとしなかったら、バラムの命はなかった。

「行け」と命じられたのは神じゃないの?

なのに、なぜ怒るの?なぜ殺そうとされるの?

先のモーセが経験した出来事と似ている。

これについて、現時点、明確な答えを私は持っていない。

しかし、ここに私たちが学ぶべき何かがあるからこそ、これらの出来事が書き残されているのだと思う。

あえて、曖昧模糊とした自分の見解を述べるならば、モーセの場合は神の使命を果たす上での「備え」が十分ではなかったのではなかろうか。

本来は彼らの息子たちに「割礼」を施してからエジプトへと向かうべきだったのだろう。

バラムの場合はその動機に問題があったと思われる。バラムの登場する物語の中には記されていないが、バラムはその後、バラク王が与えると約束した報酬に心を奪われて、イスラエルを偶像礼拝に導くための手助けをした。

所感

それぞれにこの地上において神に与えられた使命がある。

その使命が大きければ大きいほど、そのための訓練も厳しいものになるだろうし、また問われる責任も、求められることも、大きくなると考えられる。

そして、その中でも大きなウェイトを占めるのが「聖さ」ではないかと思うのである。

「割礼」は「肉の欲望」からの決別を意味する。

また、「血」は「聖め」の働きをする。

「肉欲との決別」が出来なかったバラムは神の声を聞きながら、最終的には金銭に目がくらみ、自らに滅びを招くことになった。

それは現在、大いに用いられている神の人にも言えることである。

彼らでも「欲」に目がくらんでしまった時に自らに、また彼らに従う人々に滅びをもたらしてしまうのである。

私自身は一介の小さき聖徒であるが、だからと言って自分は大丈夫ということはない。

「肉欲との決別」のために聖霊の助けを受けつつ、さらに聖められることを求めて行きたい。