げんてんかいき

趣味は「聖書通読」ですが、何か?

罪に身を任せない

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聖書通読箇所

出エジプト記9章

神による災いは続く。家畜には伝染病、人間には腫物の伴う感染症、そして、大雨と雹と雷。それによってファラオは一時的に悔い改めるが、すぐに翻意する。

注目箇所

ファラオは雨と雹と雷がやんだのを見て、またも罪に身を任せ、彼とその家臣たちはその心を硬くした。(出エジプト記 9章34節)

考察

喉元過ぎれば熱さを忘れると言う通り、神罰が止むとすぐにファラオは心を翻し、イスラエルの民を行かせまいとした。

それに関して、注目箇所では「罪に身を任せ…心を硬くした」と記されている。

カインが弟アベルに対して、殺意をも抱く激しい嫉妬に駆られた時、神は言われた。

もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。(創世記 4章7節)

しかし、カインは神の忠告に耳を貸さず、怒りに身を任せて、アベルを殺してしまった。

怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。(エペソ人への手紙 4章26~27節)

とあるように、私たちがその心に負の感情を抱き続けると、それが悪魔に機会を与えることになる。

そして、具体的な「罪」の行為へと発展してしまうのだ。

人間である以上、負の感情を抱いてしまうことは致し方ない。

しかし、負の感情を抱き続けるなら、それが私たちを霊的に危険な状態へと追いやることを忘れてはならない。

そうならないためにも、私たちは十字架を見上げ、神が私たちを赦して下さったように、他の人を赦す者とならなければならない。

また、自分自身をも赦すことも忘れてはならない。

神は自分を赦してくださっているのに、自分自身が自分を赦していないこともある。

そのような状態では、私たちは神の恵みを十分に受け取ることが出来ない。

感情が伴わなかったとしても、まずは自らの言葉で「赦し」を宣言することだ。

私たちが罪に身を委ねるのではなく、神の言葉に身を委ねるところに聖霊が働かれる。

所感

自らを顧み、日々、赦しを宣言しよう。

赦したと思っても、ふとした瞬間にむくむくと、負の感情が芽生えることがある。

その度に赦しを宣言し、負の感情を芽のうちに摘み取る習慣をつけたい。

決して、負の感情に、罪の性質に自らを委ねることのないように十分な注意を払いたい。