聖書通読箇所
出エジプト記10章
いなごの大量発生。3日間の完全な闇。エジプトに対する神の災いは続く。
注目箇所
モーセが天に向けて手を伸ばすと、エジプト全土は三日間、真っ暗闇となった。人々は三日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立つこともできなかった。しかし、イスラエルの子らのすべてには、住んでいる所に光があった。(出エジプト記 10章22~)23節
考察
神がエジプトに下した10の災いの中で「3日間の暗闇」は他の災いと毛色が違う。
ナイル川の水が血に変わったり、大量のカエルが這い上がって来たり、疫病が蔓延したり、というような災いは「動」のイメージだが「暗闇」の災いは「静」のイメージ。
他の災いに比較して受けるダメージは小さいような気がしなくもない。
しかし、神がもたらした「闇」は、互いに見ることも、その場に立つことも出来ないほどの闇だった。
もしかすると、神はエジプト人の視覚を一時的に奪われたのかもしれない。
神の使いを襲おうとしたソドムの住民や(創世記19:11)、エリシャを亡き者にしようと迫ってきたアラム軍も目をくらまされている(Ⅱ列王記6:18)。
それだったら、エジプト人の全てが暗闇に包まれていた間、イスラエル人には光があったことの説明もできる。
それにしても、視覚に何も問題がない人が、完全に視覚を奪われ、完全な「闇」に包まれるのは本当に恐ろしいことだろう。
今だったら、スマホの光ですぐに周りを照らすこともできるだろうが、モーセの時代ではそうもいかない。
もし、視覚そのものが奪われていたのであったら、いくら周りを照らしも意味がないだろう。
神の「闇」による災いは、終わってみれば3日間ではあったが、その時は暗闇がいつまで続くか分からない状況だったわけだから、精神的なダメージは相当だったろう。
この「闇」による災いにはきっと象徴的な意味があるのだろう。
私はエジプトに下された「3日間の闇」という災いに、次の聖書の言葉を想起する。
御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。そのさばきとは、光が来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。(ヨハネの福音書3章18~19節)
「光」の中ではなく「闇」の中を歩んでいること自体、すでに神にさばかれている状態であると聖書は教える。
それは私たちが霊的にエジプトの民のように「闇」に閉ざされて、互いのことも分からなければ、自分が今どこにいるかさえも分からなくなっているような状態にあるということではないだろうか。
所感
自分が霊的に目が見えなくなっていること。暗闇の中を歩んでいることに気づいていれば、まだマシであるが、見えないのに見えている、闇の中にあるのに光の中を歩んでいると思っていたら救いようがない。
そのようなことにならないように、みことばの光よって自らを点検することを怠らないようにしたい。